2011年8月27日土曜日

◇平野政吉美術館の移転理由は何か [新規構成]


 2007年(平成19年)11月、財団法人平野政吉美術館は平野政吉美術館の移転要請をされたが、主な移転理由とされたものは、平野美術館にある藤田嗣治の大壁画「秋田の行事」を再開発予定地区の目玉にしたい。現美術館が10年以内の耐震補強のための大規模改修が必要となる。県の財政上の理由から今回移転したほうがよいなどであった。

 まず、「秋田の行事」を再開発予定地の目玉にという話であるが、現美術館と新美術館建設予定地は、僅か200メートルしか離れていない。しかも、現在地のほうが、秋田市で一番の観光名所、千秋公園の入口にあり、集客面でも優位にある。

 わざわざ商業地帯の再開発予定地区に移転しなければならない合理的理由は見当たらない。また、現在、平野政吉美術館(現秋田県立美術館)に展示されている「秋田の行事」は、床から6尺(約1.8メートル)の位置に据えること、両端を迫り出して据えること(アールを付けること)を藤田嗣治から直接助言を受け展示しており、美術館自体が「秋田の行事」を展示、鑑賞することを主目的に建設されている。「秋田の行事」を鑑賞するうえで、最高の展示状況にあると言える。この美術館から「秋田の行事」を移設しなければならない合理的理由があるのだろうか。また、「秋田の行事」に限らず藤田嗣治の作品を集客目的に考える発想は疑問視される。

 次に10年以内の耐震補強ための大規模改修が必要であるとのことだが、建物の耐震診断さえ実施しなかったし、現在の耐震技術では東京都台東区の国立西洋美術館や神奈川県箱根町のポーラ美術館が採用している建物の揺れを軽減させる「免震構造」という技術もあるが、一切検討しなかった。また、昨年2月と今年2月の県議会において、知事は「現美術館の文化施設など美術館以外の活用も可能だ」と発言している。美術館としては使用できず、他の文化施設なら可能であるという合理的理由がどこにあるのだろうか。

 県の財政上の理由から、10年後の改修費確保が困難になる可能性があるとの説明があったが信じ難い話である。当初、今回移転した場合、県有地との相殺により県の支出はほとんどないと説明していたものが、昨年の議会では9億2千万円の支出に変わったが、計画の中止はおろか見直しや再検討さえされなかった。著名建築家に設計を依頼したために数億円の設計費が掛かり、移転宣伝費にも多額の県費が使われている。移転が財政上有利だという説明は、真の理由ではなかったようだ。 

 また、近年、東京などで開催された藤田嗣治巡回展に比べ、平野美術館の入館者が少ないことを問題視し、移転が必要だという議論もあったが、首都圏と秋田県の人口比較からも分かるように (詳しくは、7月16日の記事をお読みください)平野政吉美術館の入館者が少ないとは言えないはずである。
 没後40年レオナール・フジタ展など、藤田嗣治の全国巡回展が多くの観客を動員したのは、全国紙新聞社、全国ネットのテレビ局が主催し、多くの大企業の協賛、外務省やフランス大使館などの後援を得るなど総力を挙げて企画された展示会であったからである。秋田県単独では規模も限定され、全国の美術ファンを引き付けることはできないだろう。また、単発的な効果しかない企画展より、しっかりとした理念を持った常設展の展示の充実を計ることが美術館の魅力にとって重要なはずだ。

 平野政吉美術館の移転理由とされるものは、すべて合理性に乏しいものである。この移転計画は、平野美術館を移転させ、跡地に他の施設(千秋公園内にある佐竹史料館)を移転させることを念頭に画策したものであることが、当初より明らかになっている。当時の秋田市長(現県知事)も2007年(平成19年)9月の市議会において「佐竹史料館の改築については、県立美術館跡地における改築も視野に、別途検討を要する」と発言している。現在では、平野美術館の建物を残すべきだと言う市民、県民の声の高まりによって、方向を変え、平野美術館の建物だけを残し、建物に他の施設を移そうという目論見に変わっているようだ。(県議会において、佐竹史料館、美人会館の名が出されている)
 このような移転計画は人間としての道義に反するものとは言えないか。

 平野政吉美術館は、藤田嗣治の作品を始めとした美術品の収集に全生涯を懸け、生まれ育った「ふるさと秋田」の地に収集した作品を残そうとした平野政吉の人生の終着駅であり、集大成である。美術館の屋根にある採光のための丸窓は藤田嗣治の助言を忠実に守ったためであると平野政吉は複数の新聞、雑誌で証言している。そして、この美術館にはレオナール・フジタ(藤田嗣治)が最後に制作したフランス、ランスの「平和の聖母礼拝堂」に通じるフジタの尊い思いが込められている(注)。

 平野政吉美術館はこれまで通り、平野政吉が生涯を懸け収集した「秋田の行事」を始めとした藤田嗣治の作品を展示、公開する美術館であり続けることが、最善の方法であり、唯一の道である。また、それによって、秋田の世界に誇れる文化遺産としての価値をさらに高めるに違いない。


(注) 当ブログ著者が、2011年(平成23年)12月6日、平野政吉美術館にて確認したところ、美術館の屋根の丸窓から展示室に降り注ぐ自然光が、現在、設置された仕切りで遮られています。藤田嗣治が助言した自然光の採光形式にすべきと考えます。



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